ここではアシアナ162便の事故発生前の飛行経過とほぼ同一経路を辿り、まったく同じ進入方式で着陸しようとしている旅客便のコックピットの様子を、再現ビデオ風にお読みいただこうと思います。 便名は全日空677便で機長は熊田、副操縦士は森野(ともに仮名)の両名。平均レベルを超える技倆を持っているだけでなく、CRMのコンセプトを十分に理解して、日々その実践を心掛けている二人です。両名の機を逸しないチームワーク、そして熊田機長の先読みと、変化に合わせた柔軟な状況判断と決断の過程を、まずはご覧下さい。スタートはランディングチェックリストが終わったところからです。
なおこの677便の場合は「再現ビデオ風」ということで、進入限界高度で一旦滑走路が目視できたものの、着陸寸前に再び見えなくなるというように、少々ドラマチックな脚色が施されています。また、前節の162便もこの677便も、実際のコックピットではもっともっと細かい操作や確認、そしてコールアウトなどを行っています。しかし全てを文章にするとあまりにも長く煩雑になってしまうので、読みやすくするためにも些少な部分は省略させて頂きました。
「ランディングチェックリスト イズ コンプリーテッド」(着陸チェックリスト完了)
「了解!」
ACARSのプリンターから吐き出された紙片に目を通した森野が、機長の熊田に声をかけた。「キャプテン、視程が2,000メートルまで下がりました」「そうか、わかった」 前日から一緒にフライトしている森野とは今回が初めての乗務だが、経験が2年に満たない副操縦士としてはなかなかに優秀な、というより気の利く奴だと熊田は評価していた。彼ならこんな悪い状況でも、十分なアシスト業務をこなしてくれるだろう。
広島空港ランウェイ28のRNAVアプローチの実施気象条件については、滑走路上の視程が1,400メートル以上あることが要件とされている。ついさっきまでは視程が4,000メートルと通報されていたのだ。ただ今日の気象状況では広島空港の視程悪化は十分に想定内である。森野もフライト前の準備段階で、視程が1,400メートル以下に低下するかもしれないことは予想しており、そういった事態に備えるための予備の燃料も十分に積んできているのだ。こんな時にものを言うのはやはり経験を置いて他にはない。
飛行機はさらに降下を続けていた。風が強いだけに小さな山々で乱された気流が、飛行機に不規則な揺れを生じさせている。ガタガタという揺れならただ乗り心地が悪いというだけで済むのだが、それよりもっと振幅の大きい上昇気流や下降気流は、飛行機の操縦そのものを脅かす強敵だ。「やっぱりかなり悪いですね」 森野がつぶやく。
「いつものことさ。これくらいじゃなきゃ広島に来た気がしないだろ」
意図的に軽いジョークを飛ばすのもクルーの緊張をほぐしリラックスさせると同時に、自分もまた操縦に集中し過ぎないようにするための熊田ならではの工夫でもある。
こんな時は二人ともがフライトに夢中になっていてはだめで、常にどちらかは一歩離れたところで見守っているぐらいが一番なのだ。
「ワンサウザンド!」(滑走路からの高さで1,000フィートを通過した)
「チェック!」(確認した)
広島空港の滑走路標高は1,067フィートなので、高度計の針は2,070フィートあたりで1,000フィートのコールを行うのは、飛行機運用規程に定められている最終確認のためのコールアウトであり、ここで飛行機のセットアップや計器類、そして速度、降下率といった各諸元が着陸に適した状態で安定していることを確認することになっている。
その時ACARSのプリンターがうなり音とともに小さな紙切れを吐き出してきた。素早く副操縦士の森野が紙切れに目を通して言った。「視程が1,800フィートに落ちました。風は変わりなしです」「了解」 短い言葉で答えた熊田にはもう迷いはない。見えれば降りる、見えなければやめる、ただそれだけだ。「アプローチングミニマム!」(進入の限界高度まであと100フィート)「チェック!」「ランウェイインサイト!」(滑走路が見えました)「オーケー、見えた!それじゃ行くよ!」
このRNAVアプローチの限界高度は1,500フィートと定められている。つまり滑走路から433フィート(およそ132メートル)の高さまでに滑走路が視認できなければ、それ以下の高度に降下してはいけないのだ。 熊田の眼はうっすらとだが間違いようのない滑走路の形と、その左側に赤と白の光を発しているPAPI(パピ)をしっかりとらえていた。 このPAPIというのは進入角指示灯といい、正しい進入経路に乗っていれば赤二つ白二つの光が見えているが、それより高くなると白の数が増えていき、低くなると赤の数が増えていくように設計されている。つまりこのPAPIの赤赤白白を変えないように飛行機をコントロールしていけば、滑走路の定められた地点に間違いなく着陸できるということになる。
オートパイロットとオートスロットル(自動推力調節装置:セットした速度になるようにスロットルレバーを調節してくれる装置)をオフにして手動操縦に切り替えた熊田は、長年培ってきた操縦の腕をフルに発揮すべく操縦桿を握った左手に力を込めた。
300フィート、もう滑走路は目の前だ。
その時熊田は左側のPAPIの赤い光がすうっと薄くなっていくのを感じとった。あっと思った次の瞬間、これまで見えていたPAPIも滑走路も何もかもが、まるでマジックのようにミルク色の霧の中に吸い込まれていってしまったのだ。
霧や雲は遠目にはどんよりと漂っているだけのように見えるかもしれないが、実はかなりの速さで移動し変形しているのだ。このようにそれまで見えていた滑走路がいきなり見えなくなることはそれほど珍しいことではない。
一瞬熊田の頭の中で様々な思いが駆け巡った。
見えない。でもあと少しだ。安定している今の速度と降下率をキープしていれば、一呼吸する間に再び見えるかもしれない。どうだ。
ためらっていたのは多分コンマ何秒かの間だったのだろうが、そのわずかな遅れを森野は敏感に感じ取った。
「キャプテン、見えません!」
森野のコールアウトは、着陸したいという願望を振り切った熊田がスロットルレバーに付いているゴーアラウンドスイッチを押したのとほぼ同時であった。
「ゴーアラウンド!」「フラップ3!」
「フラップ3!」(フラップ3に上げました)
「ポジティブクライム」(上昇を始めました)
「ギヤアップ!」(車輪を上げてくれ)
目まぐるしい速さで二人の言葉が交錯する。着陸直前のゴーアラウンドは毎年の訓練でそれこそ飽きるほどやっているのだ。こんな時二人の息がわずかでも合わなかったら大変だ。たとえ機長と副操縦士が初めての組み合わせであっても、常にこのコンビネーションが成立するように鍛え上げられているのがプロのパイロットだ。
飛行機は機首を大きく上げて力強い上昇に移った。
「Hiroshima Tower, All Nippon 677, Go-around!」(広島管制塔、こちら全日空677便、ゴーアラウンドしました)
「Roger 677, Contact Hiroshima Approach on 124.05」(677便了解、広島アプローチと周波数124.05メガヘルツで交信してください)
「Roger, 124.05」(了解、124.05メガヘルツで交信します)
飛行機はすでに安定した上昇を続けている。あとは決められたルートを通って待機用のフィックス(上空の定められた地点)まで行き、これまた決められたホールディングパターン(旋回待機するための楕円ルート)に入れば一息つける。
さてこれからどうするかだ。 森野がアプローチ管制官に呼びかけるのを聞きながら、熊田はすでに次の作戦を練り始めていた。 まずはチーフパーサーに連絡だな。それからカンパニー(会社無線)にも連絡しなきゃ。それからお客さんにアナウンスだ。最新のウェザー(気象情報)もらってからにするか、それともとりあえず安心してもらっておいた方がいいかな。予備燃料は1時間分以上はあるはずだから、まだあわてることはないな。
大雑把なプランを思い描いた熊田は、管制官との交信が終わって一息いれている森野に声をかけた。
「ごくろうさん。それじゃカンパニーの方よろしく頼むよ。しばらくホールド(旋回待機)するからって。ついでにウェザーと当面の見通しも聞いといてね」
「了解しました」
「オーケー、じゃ僕はCP(チーフパーサー)に言っとくからね」
それぞれ分担した作業に取り掛かりながらも、二人の眼が飛行機の状態を示す計器類や外部の監視から逸れることはない。これがエアラインパイロットのクルーワークなのだ。
この熊田、森野両名によるフライトと同様な判断、操作、確認を行ってさえいれば、あのアシアナ162便の事故は起こらなかったはずとの思いは強く感じます。
予想されるリスクの危険性を十分に理解した上で、その対応だけにとらわれることなく本来のタスクと、変化する情報管理をクルー間で共有し分担しながらこなしていくのがパイロットの任務です。この場合の本来のタスクとは、もちろん飛行機の安全を確保しながらコントロールすることであり、何とか目的地に着陸することではないはずなのです。
しかしアシアナ機のクルーは、霧で視界を失ってしまった後もそのまま進入を続け、高いか低いかの判定もできないままに滑走路端に近付いてしまいました。
なんとか着陸したいという思いが、フライトパス(飛行経路)を守り通すことを忘れさせてしまったのでしょうか。副操縦士は機長のそんな心理を見抜き、あるいはフライトパスの乱れに気付いて機長にアドバイスすることさえ忘れて、機長と一緒に見えない滑走路を探していたのでしょうか。
今の飛行機、そしてそれを取り巻く航空システムが完全に機能していれば、たとえ気象状況が急激に変化しようが気流が悪かろうが、飛行の安全性には何の影響もないはずなのです。危険には絶対に近付かない、そのための基準を守りさえすればコックピットに危険のつけ入る隙はありません。
第三章で紹介した「コックピットクルーの行動とパフォーマンス」が問題にされる事例とは、このように、なぜ当たり前の反応、判断をしなかったのだろうか、なぜ出来なかったのだろうか、という疑問が残る事例を言うのです。