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4-3-3  トータルパフォーマンス

  ここではトータルパフォーマンスという概念を理解してもらうために、一つの事例、というより筆者が実際に体験したある場面を再現してみましょう。
  それは遥かにさかのぼること昭和49年(1974年)、筆者がまだなりたてほやほやのコーパイ(副操縦士:Co-Pilot)としてYS-11に乗務していた時のことです。

着氷の恐怖

YS-11

  それは東京広島往復の復路便だった。その日は西日本を中心に雨が降り続き、上空も厚い雲に覆われていた。広島空港を離陸する頃には日没時刻を過ぎ、岡山上空に差しかかるころには当然真っ暗で、しかも厚い雲の中の飛行だ。当時のYS-11にはオートパイロット(自動操縦装置)が装備されていなかったため、離陸から着陸まで機長か副操縦士のいずれかが常時操縦桿をにぎっていなければならなかった。

  YS-11の計器盤の照明は、今時のもののように計器盤内部から発光するようなタイプではなく、計器の縁の外側に取り付けられた小さな電球が計器の中身を照らすようになっていた。しかもその色は赤色である。

YS11コックピット

  赤い光は人間の眼が明るいものに慣れてしまって暗いところが見えにくくなる現象を起こしにくい、という理由で採用されたらしい。ただその後の飛行機で同じように赤い照明が採用されているものを見たことがないので、その効果についてはよくわからない。いずれにしてもコックピットが妖しいムードに彩られて、夜間飛行は私のお気に入りだった。

  その日のキャプテンとはそれまでにも何回か一緒に飛んだことがあって、クルーズ中はいろいろと話が弾んでいた。帰りの便は私が操縦を担当させてもらっており、その時も自分で操縦桿を握って高度、針路はしっかりと守りながらも、左耳と口はおしゃべりに充てていたのだ。右耳は航空路管制官からの無線の呼び出しに備えて、常にヘッドセットのイヤホンに注意を向けている。

  ふと気が付くと高度は指定された高度ぴったりをキープしているのだが、どうも違和感がある。目の前の計器盤の中央にある姿勢計(人工水平儀)を見るとピッチ(機首の上下角度)が通常よりだいぶ上向きになっているのだ。そういえば速度も普段より少ない数値を示しているようだ。
  少々言い訳になるが、YS-11の計器は当然ながらアナログで針が回るタイプのものである。しかも小さいのだ。最新型の飛行機のように巨大な液晶画面に、デジタルの数値がくっきり表示されるわけではない。しかもプロペラ機の場合巡航速度自体もアバウトだ。だからわずかずつ変化していくと、なかなかその変化に気付きにくいのだ。
「キャプテン、なんか変です!」
「おう、そうだな!」

  キャプテンは一瞬で思い当たったようだった。すぐにシート脇に置いたフライトバッグからフラッシュライト(懐中電灯)を取り出すと、前方のウインドウに光を当てた。

「やっぱりだ!」

  見るとウインドウの前方、つまり窓ガラスの外側が白っぽいカバーのようなものですっかり覆われてしまっている。

  氷だった。その日は厚い雨雲の中を飛んでいたのだが、こういう雲は水分量が多く、ある程度以下に外気温度が下がると飛行機のあちこちで着氷(氷の付着)が起こる可能性がある。もちろん当日もその可能性は十分に承知しており、注意はしていた。エンジンの着氷を防ぐ防氷装置は作動させてあったし、定期的に前方ウインドウ下部のワイパーをッフラッシュライトで照らして確認していたのだ。
  正面から風が当たっている場合、氷は物体の先端から付き始める性質がある。従って翼の前縁やエンジンの空気取り入れ口などに氷が付着しやすいため、それらの部分にはそれぞれ防除氷装置が組み込まれている。ただその辺りはコックピットからは見えにくいため、パイロットにとっての着氷の目安は目の前のウィンドシールドワイパーの根元なのだ。ワイパーの根元の金具に氷が付き始めたら防除氷スイッチをオンにする。これが当時のパイロットの常識だった。

  ところがその日の飛行コースでは特別着氷が起こりやすい気象条件が重なっていたのかもしれない。一旦確認して何もなかったところが、ほんの5分もたたないうちに一気に着氷してしまったのだ。前面のガラスは着氷や曇りを防ぐために常時ヒーティングされているのだが、なんとガラスの表面から少し離れたところで、まるでドームのようにすっぽりと前面を覆ってしまっていた。
  当然前は全く見えない状態だ。しかしもともと夜間の雲中飛行だったので状況としては大した変わりはない。それよりも重大なのは、機体のあちこちに着氷することによって空気抵抗が増し、速度がどんどん低下してしまうことだ。さらに減速すると失速状態に陥ってしまうかもしれない。

  速度が減ってきた分、高度を保つために無意識に少しずつ操縦桿を上げ舵にしてきたのは自分だ。そんな鈍感な自分に恥じ入りながらも、私は何をすべきか必死に考えようとしていた。しかし頭の中はむなしく空回りするだけだった。


  その時キャプテンの冷静な声が響いた。
「よし、高度を下ろすぞ。アイハブコントロール!低高度もらってくれ。7千でいい」
「了解!ユーハブコントロール!」

  操縦をキャプテンに引き継いだ私は、直ちに管制センターのコントローラーに7,000フィートまでの降下を要求し、それはすぐに許可された。
  キャプテンは間髪を入れずスロットルレバー(出力調整レバー)をアイドルに戻し、操縦桿を前方に倒す。氷の鎧をまとったYS-11は急激に降下を始め、それにつれて速度がゆっくりと増加してくる。高度が下がり速度が上がってくれば、機体に当たる空気の温度が上昇するのだ。雲の中で揺れが激しくなってきたが、そんなことはこの際構ってはいられない。

  高度が1万フィートを過ぎる頃、バキンという激しい音とともに目の前の氷の壁が砕け、飛び散り始めた。一旦砕け始めればあとは速い。次から次へと氷の破片が後方へと飛び去り、次第に前方の視界が開けてくる。その時飛行機はちょうど雨雲の下に出た。

 
  キャプテンと私の眼前には大きな夜景が広がっていた。あれは岡山だろうか、姫路だろうかと、混乱した頭のままで考えていた私の横で、エンジンの出力を増加させて降下率を緩めたキャプテンが大きく息を吐いた。

クルーの力

  飛行中の飛行機への着氷はかなり深刻な問題である。2009年2月12日、アメリカのバッファロー近郊で墜落、乗員乗客49名と地上で巻き込まれた住民1名の計50名が犠牲となった、コンチネンタル航空3407便の事故は、機体への着氷が原因であるとされている。
  事故を起こした飛行機はカナダ・ボンバルディア社のQ400で、YS-11と同様に双発のターボプロップ機である。やはり高度16,000フィートで雲の中を飛行中着氷に見舞われ、その後回復するための操縦を誤って墜落したのだという。

  それ以外にも着氷による事故は多い。機体への着氷だけでなく、ピトー管や静圧孔(ともに機体に取り付けられた、高度や速度を計測するための空気取り入れ口)の着氷によって計器類が誤作動を起こし、機体の制御を誤って墜落してしまった例もある。地上待機中に機体やエンジンが着氷し、それに気づかず離陸しようとして、十分な速度を得ることができずに墜落、といった事故も何度も起こっているのだ。
※第1章の1、ポトマック川の悲劇も全く同様の事故である。


  そんな背景もあって、パイロットは着氷についての十分な教育を受けることが求められている。もちろん私も訓練生時代だけでなく、コーパイになってからもキャプテンから繰り返し教わってきたし、その怖さについて脅かされても来たのだ。
  当然いざ着氷による危機が迫った時の切り抜け方も頭では知っていたはずだ。大気の温度は高度が100メートル低くなるごとに0.6度高くなる。1,000フィート(およそ330メートル)で2度だ。また速度が速くなると空気の圧縮現象や摩擦の影響で、機体各部によっても違うがやはり温度が上昇する。従って機体に着氷の影響が出た時には、防除氷装置を働かせるのはもちろんだが、高度を下げ速度を上げるのが最も効果的な対処法なのだ。


  しかしそれを実際に活かすことはできなかった。ただ知識がしまってあるだけでは何の役にも立たないことを実感した瞬間だった。

  この時キャプテンと自分との実力差を痛感するとともに、これから自分はどう自分自身を鍛え上げていかなければいけないのか、について考え始めるきっかけになったと言っても過言ではない。

  そしてそれとともに、クルーというものの有効性を実感することができたことも大きな収穫であった。駆け出しのコーパイは経験も乏しく、生きた知識の持ち合わせも少ない。その分をキャプテンが埋め合わせてくれている間に経験を積み、しまってある知識に命を吹き込む努力をすれば、いずれは自分も今日のキャプテンに引けを取らないパイロットになれるはずだ。


  CRMではパイロットのパフォーマンスを考える時に、個人のパフォーマンスではなくクルー全体としてのパフォーマンスを考えます。これをクルーのトータルパフォーマンスと呼ぶわけですが、クルー一人ひとりについては、このトータルパフォーマンスの向上にどれだけ貢献できたかで、その個人のパフォーマンスを測ることになります。

  先の着氷の例では、私のコーパイとしてのパフォーマンスは、キャプテンに言われたことをこなすだけで精いっぱいで、トータルパフォーマンスには大して寄与してはいなかったものの、キャプテンのパフォーマンスが非常に高かったおかげで、二人合わせたトータルパフォーマンスが、激しい着氷という緊急事態を凌ぐに足りるだけはあった、ということになるのです。

  この当時にはCRMという言葉は未だ存在していませんでした。しかしクルーが力を合わせて大仕事をやってのける、という考え方が次第に浸透しつつある時代でもあったのです。

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